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  • 先導物質化学研究所
  • 九州大学理学部化学科

玉田 薫

九州大学先導物質化学研究所

ナノ界面物性分野 教授

・ Background 経歴

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昭和59年3月 : 奈良女子大学 理学部化学科 卒業

同 年 : 日本合成ゴム(株)(現JSR)東京および筑波研究所

平成3年12月 : 米国ウィスコンシン大学化学科 研究員

平成6年 6月 : 論文博士(理学)奈良女子大学

平成6年 9月 : 理化学研究所国際フロンテイア研究システム エキゾチックナノ材料研究チーム 博士研究員

平成7年 4月 : 通産省工業技術院物質工学工業技術研究所 主任研究官

平成8年 4月 : オーストラリア国立大学応用数学科 客員研究員

平成10年4月 : ドイツマックスプランク高分子研究所 客員研究員

平成11年9月 : 工技院総務部技術評価課

平成12年1月 : 理化学研究所フロンティア研究システム 局所時空間材料チーム 研究推進委員

平成13年4月 : シンガポール国立大学物質科学科 主任研究員

平成15年4月 : 独立行政法人産業技術総合研究所 光技術研究部門 バイオフォトニクスグループ長

平成15年4月 : 東京工業大学大学院総合理工学研究科 物質電子化学専攻 連携助教授

平成17年4月 : 東京工業大学大学院総合理工学研究科 物質電子化学専攻 助教授

同 年 :産業技術総合研究所光技術研究部門 客員研究員

平成18年10月 : シンガポール大学理学部物理学科 客員助教授

平成19年10月 : 東北大学 電気通信研究所 教授

平成23年3月 : 九州大学 先導物質化学研究所 教授

平成29年4月 : 九州大学 副理事(~令和2年9月)

令和元年10月 : 九州大学 主幹教授

令和2年6月 : 東北大学 材料科学高等研究所 教授(クロスアポイントメント)

令和2年10月 : 九州大学 副学長

令和2年10月 : 日本学術会議 第三部会員,九州・沖縄地区会議 幹事

令和3年4月 : JST戦略的国際共同研究プログラム 研究主幹

・ Policy of Laboratory 玉田研の目指す研究室

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学生自身が夢を実現する力を育てる

学生たちが自由な環境で学び、自分の力で問題解決する能力を身につけ、生き生きと社会に羽ばたいていける、そんな研究室作りを目指しています。それぞれがそれぞれの個性にあった夢を持ち、その夢を実現するための力を研究生活の中で身につけて卒業してもらいたいと思います。研究者として生きるもよし、企業人となるものよし、他の分野に進むのもよし、海外に夢を馳せるのもよし、とにかく自分の力でしっかりと生きていけるたくましい人間となり、社会に貢献してもらいたいものです。指導教官としての私の役割は、そのためのよい環境作りと、自立のための後押しだと思っています。

玉田研の特徴を一言で述べると「異分野(異文化)交流」であると思います。研究においても生活においても、ひとつの考えに固執せず、異なるものもすべて受け入れ,吸収し、成長していく — それをモットーにしています。「何か違う」と感じるのは、それまで自分になかったものだと直感している証拠です。学びのチャンスです。そこに果敢に近づき、攻略していくことにより、より大きな夢を将来手にいれる、そんな姿勢で教官・学生ともに生活しています。自由なのに結束の固い、そんな研究室を理想としています。

・ Educational Policy 玉田研の指導方針

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研究が面白くて時間を忘れてしまった、そういった経験を学生時代にしてから是非将来の進路を決めてほしい

研究室に新しい学生が配属された場合、最初に自分の個性と興味のあることをしっかりと本人から聞くようにしています。「DNAをやりたい」とか「プラズモンがいい」など研究テーマそのものだけではなくて、なぜそれがやりたいと思うのかが重要と思います。ものつくりをしたいのか、計測がしたいのか、計算の方が得意なのか、世の中のためになること(実用化研究)がしたいのか。

学生は学ぶのが仕事です。社会に出たら話は違いますが(嫌な仕事も生きていくためにしなければいけませんが)、学生のうちは自分自身に効率よく学ばせるためにも、好きなことから始めてもいいと思っています。自分で好きでやりたいと言った、その言葉に責任をもつことから、仕事の責任というものを覚えていってください。

研究室に所属すると研究が日常になります。研究室に好きなことが待っていると思うと足取りも軽くなるでしょうが、嫌なことをしなければならないのでは気が重くもなるでしょう。幸運にも境界領域の研究をしている我々の研究室は、物理〜化学〜生物〜情報通信に至るさまざまな研究分野を抱えており、好きな分野で研究進捗に貢献することが可能です。研究が面白くて時間を忘れてしまった、そういった経験を学生時代にしてから是非将来の進路を決めてほしいと思います。

研究指導で気をつけているのは学生に教えすぎないことです。できるだけ学生には質問のみをして、自分で考えるようにしむけたいと常々思っています(実際はつい口を出しすぎては反省することしきりですが)。時間的に余裕があるのであれば、多少失敗をして学ぶことも必要かもしれません。

・ Activity of Laboratory 海外の研究機関、及び企業との共同研究

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「異分野(異文化)交流」、社会に通用する力を

「異分野(異文化)交流」の伝統を引き継いでもらうために、学生には海外研究機関、あるいは国立研究所・民間企業との共同研究のいずれかを担当してもらうことにしています。英語が得意、あるいは英語を学びたいという学生には、彼らの個性にあった国(大学)にインターシップ派遣をして現地の研究現場を体験してもらっています。私のこれまでの滞在国(米国・ドイツ・豪州・シンガポールなど)が受け入れ研究機関の候補となります。

派遣前にはみっちり「研究の技能」を磨いてから行ってもらうのが基本です。言葉の通じにくい環境でも、科学技術が共通の言語となり、生涯の友人が異国にできる可能性が高まります。研究者の隠された楽しみのひとつは世界中に友達を持てることです。論文でしか知らなかった人と学会で顔を合わせ意気投合し、無二の親友となり、大海を挟んで競争しあう、そんな贅沢な経験を味わってもらいたいと思います。

企業との共同研究も社会について学ぶ重要な機会であると思っています。最近は修士を出て、企業就職を希望する大学院生がとても多いですが、就職先を決めるにあたり、企業での研究というものを理解しておくことはとても重要と思います。百聞は一見にしかず。遠巻きにみているよりも懐に入ってしまった方が物事の本質は見えやすいものです。転職が比較的容易になった現代においても、就職は自分の一生を決める重要な問題です。特に最初の職場というのは印象も強く、その人のその後の人生を左右しかねません。安易に考えるべきではないと私は思います。一口にメーカーと言ってもその個性はさまざまです。我々の研究室では化学・電気メーカー数社と共同研究を行っていますが、学生には社会人研究者の方たちと積極的に触れ合い、その仕事ぶりを肌で感じ取ってもらいたいと思っています。

・ For International Students and Industrial Rseachers 留学生の受け入れ、社会人博士、他

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留学生、また社会人の方へ

私の自慢できることのひとつとして、これまで実にさまざまな国の学生といっしょに仕事をしてきたことがあります。日本、アメリカ、ドイツ、オーストラリア、スエーデン、中国、韓国、シンガポール、インド、インドネシア、香港、マレーシア、モーリシャス…結果として、ちょっとやそっとの文化や国民性の違いには驚かなくなりました。さまざまな個性を持つ色々な国の学生を公平に最後まで指導し卒業させるタフさは持っている自信があります。

一方で、もう一度学び直したいという社会人博士の受け入れも積極的に行っています。企業での研究と大学(アカデミック)での研究というのは基本的な考え方から全く異なるものですが、その両方を理解しておくのも、将来のキャリアアップを考えた場合、無駄にはならないと思います。博士としての学習は知識や技能の詰め込みではありません。自分の目でみて、自分の力で判断する力を身につけることだと思います。そして紙切れ一枚の博士号ではありますが、それにより自分のその後の研究者人生に自信を持てるようになれることが何よりの価値であると思います。

・ 教育と人間と 「化学と工業(2008)」掲載

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・ 秋田から外の世界へ

私は昭和36年に秋田県の男鹿半島で生まれました。「とにかく外に出て世の中をみてみたい」その思いだけで故郷から遠く離れた奈良女子大学理学部化学科に進学しました。4年間4人部屋の女子寮で過ごしました。私はこれまでできなかったことすべてを試すことに決め、頭にはきついパーマをかけ、迷彩柄のパンツを履き、体育会のバレー部に入部し、ビラ配りをはじめとするさまざまなバイトをし、大阪や京都の街を徘徊しました。4年生で研究室配属になったのは高分子の山本教授でした。就職して経済的に自立するのが先で大学院進学など考えもしませんでした。

・ たくさんの恩師に恵まれて

就職したJSRはとても変わった会社で、研究所に配属されて間もなく、海外留学帰りの博士を含む何人もの上司による教育がはじまりました。朝から高分子物性・表面化学の輪講・雑誌会という状況に当時の私は不満で「労働者として使ってください」と抗議したものです。「私は腰掛けですぐやめるつもりですから勉強させても無駄です」「無駄かどうかはこちらが決めることで君は心配しなくていい」今だに学部卒の私をなぜそんなに大事に扱ってくれたのか不思議でなりませんが、温かく根気強い指導の中、いつしか生意気な私もすっかり洗脳され、研究者になる夢を抱くようになりました。

平成元年に筑波研究所に異動すると有機薄膜に関する探索研究をすることになり、勉強のために学会を聴講する中、東大応物の宮野健次郎先生を知る機会を得ました。先生は当時海外の研究機関から日本に戻られたばかりで、自由でオープンな雰囲気がとても魅力的でした。そんな宮野先生のもとに押しかける形で会社から研究派遣させていただき、平成2年から1年半表面波に関する指導をいただきました。

その頃アメリカウイスコンシン大学のHyuk Yu先生がJSRのコンサルタントとして筑波研究所を来訪され、同じ会社に務める主人が留学先を探していたので相談したところ、2人でウイスコンシンに来ることを薦められ、平成3年9月より2年間留学しました。実は当時の私の英語力(TOEIC 550)は全くひどいもので、それでも先生は「女性は言葉をすぐに覚えるから心配ない」と全く気にかけず受け入れてくださいました。実際1年を過ぎた頃突然話せるようになり、帰国直前にはACSのシンポジウムで講演できるほどになっていました。帰国後、当初は会社に戻るつもりでしたが、バブル崩壊でそれもかなわず、急遽それまで書きためていた論文をまとめて論文博士号を取りました。33歳の時です。その後理化学研究所での博士研究員を経て、平成7年物質研(現産総研)の主任研究員として採用されました。その後も国内外のさまざまな研究機関(理研、オーストラリア国立大学、マックスプランク高分子研究所、シンガポール国立大学など)でいろいろな経験を積ませていただきました。

・ 教育のありがたさ

右も左もわからずにいた私を研究者として育ててくれたのはまわりの人の愛情溢れる指導でした。もし私の上司や先生があれほど忍耐強くなかったら、私のような人間はとっくに落ちこぼれて、自分の居場所をみつけられなかったと思います。もちろん優秀で若い時から明確な目標を持ち努力できる人もいるでしょう。でも若さゆえ自分がわからず、悶々と過ごしている私のような人も少なくないのではないでしょうか。「非常に鍛えがいのある人と思っている」これはJSR時代の上司が25歳の私にくれた言葉です。平成17年、残りの人生を後輩の育成に費やしたいと思い大学に職場を移しました。自分が恩師にしてもらった分だけ返したい、その思いで奮闘する毎日です。